民衆に愛される「子育て呑龍」大光院


民衆に愛される「子育て呑龍」大光院 民衆に愛される「子育て呑龍」大光院
群馬県太田市の新田金山の麓にある大光院。慶長18年(1611年)、徳川家康の始祖と言われる新田義重の追善供養と徳川氏一族の繁栄・天下泰平のために徳川家康の命により創建された浄土宗の寺院です。

境内につづく「一ノ割呑龍通り商店街」には、群馬県名物「焼きまんじゅう」をはじめ昭和感あふれる店が連ね、初詣・七五三などの御祈願、初夏には「太田市民さつき祭」、秋に行われる「関東菊大会」の際には参拝者で賑わいます。

大光院は東上州三十三観音特別札所、上州太田七福神の一つ弁財天を祭っていることで有名ですが、地域の人々には「子育て呑龍」「呑龍さま」と親しまれています。

今回は、地域の皆さんから愛される大光院についてのお話です。

「子育て呑龍」大光院01 「子育て呑龍」大光院01

風情を感じる大門が迎え入れてくれます

「子育て呑龍」大光院02 「子育て呑龍」大光院02

雨上がりの広い境内は閑静なたたずまい

「子育て呑龍」大光院03 「子育て呑龍」大光院03

朱色の柱がとても鮮やかな本堂

「子育て呑龍」大光院04 「子育て呑龍」大光院04

柱の梁には獅子の飾りが施されています

なぜ「子育て呑龍」と呼ばれるようになったのか?


親しみを込めて「子育て呑龍」「呑龍さま」と呼ばれるようになったのは、大光院の開山で迎え入れられた僧侶・呑龍上人(どんりゅうしょうにん)のいつくしみ深き行いによるところです。
※呑龍上人は芝増上寺の観智国師(かんちこくし)の門弟で四哲の一人。

大光院が開山されたころの時代背景は、戦国乱世の影響で人々の心は荒み、そのうえ日本列島を襲った慶長地震などの天災の影響で生活は困窮を極めていました。
貧しい家では子供を育てられず口減らしのために、捨て子や子殺しなどが多発していました。呑龍上人はその非道を悲しみ、貧しい子供達を弟子として引き取って寺で育てたのでした。

また、看経・講義・説法などに尽力した呑龍上人のもとには、呑龍上人の学徳を慕う僧侶や、教えを乞う周辺の農民が多数集まり寺院は大変に栄えました。

「子育て呑龍」大光院05 「子育て呑龍」大光院05

慈愛の鐘

「子育て呑龍」大光院06 「子育て呑龍」大光院06

大仏様と水掛け観音像

「子育て呑龍」大光院07 「子育て呑龍」大光院07

4人の童が支えている手水舎

呑龍上人の高徳 語り継がれる命の大切さ


慈悲深く高徳の呑龍上人が還暦を迎えた年の出来事です。
親の病気を治そうとやむ負えず国禁を犯して、滋養のあるとされていた鶴を殺した少年、源次兵衛は罪人となってしまいました。
源次兵衛は呑龍上人に助けを求めましたが、かくまった大光院にも幕府の使いがやってくるようになりました。

幕府の厳しい使いから逃れるため源次兵衛を出家させて、呑龍上人と共に山を越えて長野県小諸市にある佛光寺に逃れ、身を隠したのでした。

その後、呑龍上人の恩師である日本国最高の僧侶であった観智国師の遺言によって恩免をうけ、無事に大光院に帰山することができました。

その出来事は今でも語り継がれ、人の命の大切さと子育ての心を広める活動は、太田市民だけでなく呑龍上人のゆかりのある小諸市でも「呑龍上人讃仰会」によって行われています。

■参照:小諸市の「呑ジャ焼きそば小諸」が人気!「呑龍(どんりゅう)上人讃仰会」が会員を募集う!佛光寺ゆかりの「呑龍上人」を顕彰し、まつづくりに生かそうと結成!|東信ジャーナル

「子育て呑龍」大光院08 「子育て呑龍」大光院08

寺院裏の森林から聞こえてくる様々な野鳥の鳴き声

「子育て呑龍」大光院09 「子育て呑龍」大光院09

呑龍上人がお手植えしたと伝えらる推定700年の立派な松

まとめ


「子育て呑龍」大光院11 「子育て呑龍」大光院11
太田の地に学問を広め、将来を担う子供達を大切に自分のもとで育て、身をもって寺院と子供の命を守り続けた呑龍上人は、元和9年(1623年)に68歳で生涯を閉じました。

呑龍上人にゆかりのある寺院は全国各所に存在し、その功績を今なお語り継がれ慕われてます。
「命の尊さ」は昔も今も変わりません。

呑龍上人は今この時代におられるならば「ひとりひとりの大切な命、誰一人代りもありません。」とご説法されていたことでしょう。

大光院では毎年9月7日、8日、9日には、呑龍上人を偲ぶ呑龍忌とともに大光院開山忌法要が行われます。
是非、一度ご参拝に訪れてみてはいかがでしょう。

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